金魚の話


 暑い夏日だった。
 日差しはアスファルトに反射する度に鋭くなり、額にじっとりと滲んだ汗をは拭う側から流れていく。そんな暑さの中、城西と持田は無言で坂道を上っていた。 涼しげな浴衣とすれ違いながら城西は人があまり多くない参道を珍しく思う。
 オフの日もまさか持田と行動を共にすることになるとは思わなかった。約束を取り付けたのは自分であるから、そんな考えは無責任だったかもしれないが、正直なところ、まさか持田が話に乗るとは思わなかったのだ。夏祭りと持田というイメージが城西のなかで合致せず、また加えてその隣を自分が歩いているという事実も珍妙な気がしていた。
 夏祭りが行われるという情報をもってきたのは三雲だったか。
 練習後のロッカールームでのことだ。チーム内で誰か参加者を募りたかったのかとも思ったが、そういうわけではなかったらしい。単なる一情報としての発言だったそれは秋森や堀たちには見向きもされなかったが、唯一人、エースである持田の興味をそそった。着替え終えた城西が気分転換にでも行ってみようかと三雲から詳しい情報を聞いていたところで、ずっと黙っていた持田が声を掛けてきた。
「シロさん、行くの?」
 端的な問い掛けに振り返る。
 その表情がいつもと違うように見えて、城西は思わず持田を凝視した。しかし、じっと見つめた持田の様子はやはり持田でしかなく普段と違うところは見受けられない。小首を傾げながら、城西は答えた。
「あぁ、せっかくだしな。お前も行くのか?」
「………」
 持田はしばらく黙っていた。
 黙ったままの相手に、城西は特に考えもなく気楽に声を掛けた。
「一緒に行くか? といっても、祭りの雰囲気を味わいたいだけだからそんなに長居はしないと思うが」
 酷く驚いた顔をされた気がして城西は面食らった。クラブのエースである持田は普段、そんなある種の幼さを残すような表情をしないせいだった。だから、自らの言葉に不意を突かれたみたいな顔をした持田に逆に面食らったのだ。
「うん。行きたい」
 頷かれて、自分から誘ったくせに城西は怯んだ。
 まさかオフの日に持田と出歩くなど、考えたこともなかったからだ。だから、実際に待ち合わせてこうして屋台を眺めながら歩いていても、まだこうして肩を並べているのが嘘のようだった。持田と城西が共にいることなど、ピッチの外ではほとんどなかった。
 一緒に歩いているのに、先程からずっと持田は喋らなかった。
 プレーしているときは饒舌で、相手を傷付けるような暴言を発する口がいまは閉じられて、その眼がきょろきょろと物珍しげに居並んだ屋台を眺めている。子供みたいだなと内心思いながら、城西はふっと浮かんだ疑問をそのまま投げかけた。本来ならそんなことは聞くようなことではなかったのだが。
「持田。お前……、祭り初めてなのか?」
「……まさか」
 鼻で笑われたものの、少し安堵する。
「シロさん」
「ん、なんだ?」
「……あれ。あれやりたい」
 そう言って持田が指差したのは、白地の布に赤い文字で書かれた幟だ。黒い小さな魚と、赤と白の模様をもった魚が優雅に泳いでいるような絵が描かれている。看板を読まなくても何をする店なのかくらいは容易に浮かんだ。それくらい、祭りの出店としては馴染みあるものだった。
「金魚すくい? ……些か、こどもっぽくないか?」
「いいじゃん。俺、やりたいからやってくる」
 ポケットに突っこんでいた手を出して、ふらふらと持田は城西から離れてその青い水槽に近付いた。仕方なく城西もその後に追従する。丁度、浴衣を着た年端もいかぬ少女がポイで金魚を掬い損ねたところだった。
「あっ」
 少女が声を上げる。
 かわいらしいその声とともに、水槽に逃げた金魚が悠々と泳ぎ出した。水草が浮かぶ透明な水のなかで赤や斑や黒い金魚たちが必死に生きている。城西が覗きこんだ水面の下では、青い壁面にぶつからないよう器用に尾ひれを揺らして小赤がポイを避けるように泳ぎ、そんな金魚たちに混じってミドリガメも数匹。
 最近の金魚すくいでは亀も掬えるのかと驚いている間に、持田は店主に金を払ってポイを受け取ったようだった。城西が目を向けると丁度立ちあがった持田と目が合う。ずいっと眼前に差し出されたのはポイだった。
 何故かポイは二つあった。
「……二回やるのか?」
「馬鹿でしょ。これ、あんたの分だよ」
「俺の?」
「そっ。おごってあげる」
 気分いいからね、そう言って持田は城西に半ば無理やりポイを押しつけて、自分はさっさとしゃがみ込んでしまう。開きかけた唇を閉じて、城西は受け取ったポイを片手にして身を屈めた。隣にいた浴衣姿の少女がじっとこちらを羨ましげに見るものだから、なんとなくやり辛い。
「………」
「………」
 城西の気まずさなど我関せずといった風で持田は金魚すくいを始めている。
 少女の着ている真白い浴衣には赤い金魚の絵が描かれていて、それがまた何とも言えない感情を込み上げさせて城西の頭を悩ませた。感じなくてもいい罪悪感が滲み出る。もともと、やるつもりもなかった金魚すくいだ。持田の金で買われたポイの値段は三百円で、その値段は城西や持田にとってはちいさな単位だが、この少女にとってはおそらく大きなものだろう。
 城西は羨ましそうに見ていた少女に、なるべく優しく聞こえるような声で尋ねた。
「やりたいのか?」
「!」
 見知らぬ男に声を掛けられて驚いたのか、少女は大きく首を振った。愛らしいその仕草に微笑んで城西は自らのポイを差し出した。こちらの意図がよく分からずに不思議そうにポイと城西の顔を代わる代わる見つめている大きな瞳に、ますます微笑ましい気持ちになり言葉を紡ぐ。
「そうか…。じゃあお願いだ。おじさんの代わりにやってくれないか? 苦手なんだ」
 その言葉にパァッと明るくなって、しかしそれでも暫くはもじもじしている少女だったが、辛抱強く待っている内にようやく城西の好意を受け取った。ポイを手にキラキラと輝く表情を目にすると、城西はほっと安堵して立ち上がった。
 立ち上がった矢先に、視界に入ったのはつまらなそうな顔をした持田だった。
 手には透明の紐付き袋があり、水の中で赤と白の斑の金魚が入っている。
「おお、取れたのか。よかったな」
 気軽に言った城西と対比して持田の表情は晴れなかった。祭りを見始めた当初の好奇心は形を潜めて、完全に冷め切った表情をしていた。その温度差を少なからず城西は意外に感じたし、なによりニ匹の金魚を捕っているにも関わらず持田がそんな様子なのに驚いた。あまりに簡単に取れ過ぎてつまらなかったのだろうか。
 そう考えていた城西に持田が、今度はその袋を見せ付けるように持ち上げた。
 意味が分からずに眉を顰めていると随分と硬い声色が耳に届く。
「……俺要らないから、シロさんにあげる」
「?」
 理解できず、問う。
「金魚すくいがしたかったんじゃないのか? 飼えないなら、貰わなければよかったじゃないか」
「したかったよ、金魚すくい。もらったけど、要らないからあげるって言ってんの」
「……持田。金魚だって生きてるんだ。生き物を粗末に扱うような真似は、」
「いい」
 きっぱりと、持田は城西の言葉を遮った。ダービーマッチでのETUとの試合中、ピッチで吐き捨てたときのような鋭さを持つ口調だった。
「イイ子ちゃんなシロさんの説教は要らないよ、興味ないし。もし俺が育てたら、たぶん餌やりわすれたりするからシロさんが育ててよ。……それに、取らなかったんでしょ、金魚」
「! ……それはそうだが」
 責められた気分になって顔を逸らす。
 先程の少女とのやりとりは自分の判断でしたことだったが、流石に持田に悪かったかと思っていると持田が紐付き袋を受け取れとばかりに差し出した。受け取って育てろと言わんばかりの態度だが、城西の性根にある優等生染みた性格を疼かせるには充分だった。
「……仕方ない。尊い命を無下にするのも嫌だしな」
「じゃあ、よろしく」
 冷たい感触がひやりと城西の手に当たる。城西にニ匹の金魚を渡すと、持田はさっさと踵を返してしまう。参道を下ろうとしている男に思わず声を掛けると、「もうやりたいことないから」と素っ気なく答えられた。赤い紐を指先で摘み上げて城西はその背中を見つめた。
 フッと笑って、それを追い掛けるように歩き出す。
 そうして追い付いたチームメイトに一言だけいってやった。
「ちゃんと育ててやるから、たまには顔を見せてやれよ」
「金魚に?……シロさんって頭おかしいんじゃないの」
 さらりと持田がこぼした毒は、どうしてかさほど城西の心を抉るようなものがなかった。