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* カレーうどん

 ピンポーン。
 そろそろ昼飯にしようかというところで、呼び出し鈴が鳴る。このタイミングは何だろう。冷蔵庫を開けていた成田は嫌な予感がして、そのチャイムを無視しようかと半ば本気で思い悩みながら冷蔵庫の扉を閉めた。
 しかし無視しようと思っても、しつこく繰り返し鳴らされる電子音に段々苛立ってくる。成田はため息をこぼし、ようやく観念したのか玄関に向かった。
 こんなことをする人間を成田は一人しか知らない。それでも念のため、ドアの覗き穴から無礼な来訪者を確認する。予想を裏切らない人物の姿にまたしてもため息が口を突いて出た。
 ロックを外し、ノブを回す。
「……何の用だ、達海」
「おそーい」
 開口一番で文句をつけてきた達海猛に、成田は思いきり扉を閉めたくて仕方なくなった。
 これほど失礼な奴にはなかなか会わないだろう。そもそもクラブチームでも代表でも達海と同い年、もしくはそれより若い世代の選手からこんな風に不躾な訪問をされることはない。この男の自由すぎるほどの慣れ慣れしさは何処から来るのだろう。接触機会の少ない成田ですらげんなりしているのだから、所属するクラブチームのフロントは大変だろう。
「……喧嘩を売っているのか?」
「まさか! 待たせるなんてさぁ、せっかくかわいい後輩がオフの日利用して遊びに来たのに」
 聞き捨てならない台詞にぴくりと米噛みが引き攣った。どこをどうねじ曲げればそういう解釈になるのか理解しがたい。一ミリとして理解不能である達海の思考回路に呆れて鸚鵡返しに聞く。
「かわいい?」
「そっ。かわいい後輩」
「寝言は家に帰って言え」
 吐き捨てるように言っても達海にはまったくダメージはない。にへらっと食えない笑みを浮かべて、成田の言葉など聞こえていないかのようである。
「はいはい。じゃ、お邪魔しまーす」
「邪魔だと思うなら邪魔するな。さっさと帰れ」
「うん、帰るかえる」
 そう言いながらも座って靴を脱いでいる達海に成田の眉間の皺は深くなる。既に居座る気満々だからだ。こういうことは初めてではない。
「おい」
「んー?」
「なぜ、靴を脱いでいるんだ」
 至極真っ当な突っ込みを受けて、片方の靴を脱ぎ終えた達海が振り返りつつ言った。
「……成さん」
 ひどく真剣な顔をされて、成田は面を食らう。
「………なんだ」
「俺、腹ヘったんだけど」
 その返答に毒気を抜かれた。
「ほら、丁度よく昼飯の時間じゃん。だから、もしかして後輩に優しい成さんがご馳走してくれるんじゃないかと思って」
 あっけらかんと言い放たれて、成田はもう何の言葉も言い返すことができなかった。怒るのも阿呆らしい。どうせ何を言っても達海が飽きるまで帰りはしないのは経験として分かっているのだ。さっさと昼飯でも何でも食べさせて追い返した方が一番面倒がない。
 成田は嘆息して踵を返した。
「……早くあがれ。近所の迷惑になる」
「わーい、成さんやっさしーい!」
 最終的に折れた成田の背中を見送って、達海はにんまりと笑って脱いだ靴をそのままに付いていくように成田の家に上がった。何度か来ているので部屋の構造はよくわかっている。それでもついつい左右を見回してしまう。成田の部屋はすっきりと整頓されている。達海の部屋は散らかっているので、こうも片付いている部屋を見ると変な感じがする。
 きょろきょろと忙しい達海の視線に、成田がうとましそうに口を開いた。
「そんな風に見回しても何もないぞ」
「いや、成さんって細かそうだなと思って」
「あ?」
「部屋とかキレイだし、なんか物はあるのに男の一人暮らしにしては妙に片付いてるっていうか」
「誰もがお前みたいに適当ではない。……勝手に見てろ」
「はーい。……成さん、昼飯なに?」
「黙って待ってろ」
 言い残して、成田はさっさとキッチンに戻ってしまった。予定していた昼食はきっかり一人分の材料しかなかったので、別のメニューを考えなくてはいけなかった。


 まな板の上で材料を切る。
 トントンと慣れた手つきで切っていくのは白ネギだ。他にも、切り終えたニンジンとジャガイモが器に入っている。上京したての頃は料理などしたこともなかったが、慣れれば適当ながら食べられるものができるようになる。飛び抜けて美味しいとは言い切れないが食べられないほどではない。そんな料理を他人に振る舞うようになるとは、誰が予想しただろうか。
 とはいえ、達海に振る舞う料理なのだから多少まずくても文句を言う義理はないだろう。
「カレー?」
「うわ…っ!」
 藪から棒に背後から声が聞こえて成田は危うく手が滑りそうになった。反射的に振り向いて口調を荒げる。肩越しにいた人物は当然であるが達海である。
「待ってろと言っただろう!あぶない!静かに座ってろ」
「えー、だって暇なんだもん。で、カレーで合ってんの?」
「……不正解だ」
 どこまで行ってもマイペースというか、つくづく付き合いにくいタイプだった。代表で一緒にならなければ、きっと成田は達海のことなど気にせず日々を過ごせたはずだったのに、運命とは時として非情である。
 普段はこんなのでも、ピッチの上では様変わりしてしまうのだからサッカーというのは本当に不思議なスポーツだった。ピッチの達海とそれ以外の達海は、成田にはまるで別人のようにさえ見えるときがある。成田は止まっていた調理の手を再び動かし始めた。トントンとリズムよく包丁がまな板を叩く。
 当の本人はというと、相変わらず昼食の献立が気になっているようだったが。
「えぇーっ、じゃあ何なの? シチュー?」
「カレーうどんだ」
「カレーうどん……ほとんど合ってんじゃん」
「正解ではない」
「……成さんって負けず嫌いだよね」
「お前は違うのか?」
 引っ掛かるものを感じ、手を止めて真顔でそう返すと、達海は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして成田を凝視していた。それに不審な表情になったのは成田だった。
「……ははっ、そうだね。俺もマケズギライかも」
 聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
 達海自身、どうしてそんな反応をしたのか分からなかった。こんな風に返されるとは思ってもみなかったからかもしれない。成田が達海のことを「負けず嫌い」だと評価しているのが意外な気がしたのだ。そう思われているなんて、予想もしていなかった。
 頬を掻く。
 胸の奥に広がった、言いも知れぬむず痒さに引っ掻かれるような感覚に達海がどうにも居心地の悪さを感じていると、ふいと成田は体を反転させて冷蔵庫から鶏肉を取り出した。
「そう時間は掛からないから、テレビでも見て待っていろ」
 ぼんやりと突っ立っていた達海が気になったのか、座っていろと声を掛けてくる。しかし、達海はじっと成田の顔を見つめてからゆるく首を振った。なんとなく、もっとここに居たかった。
「俺、もうちょっとここで見てたいんだけど、だめ?」 
「……勝手にしろ」
 それから料理ができるまでの間、達海はじっと成田が料理を作るところを見ていた。飽きることなく頬杖をついて見つめてくる男の視線を気にする風も見せず、成田は冷凍庫から取り出した冷凍うどんを鍋に掛けた。


 食欲をそそるカレーの匂いが部屋中に広がる。
 達海の胃袋はとっくに限界を迎えている。いまかいまかと待ち侘びている雰囲気を全身から醸し出すETUの七番の男は、とてもじゃないが二十五歳には見えなかった。自分が二十五のときはこんなに落ち着きがなかったかと考えようとして、しかし成田は瑣末な思考を即座に振り払ってテーブルの上に手製のカレーうどんを置く。ついジャガイモやニンジンを切ってしまったが、カレーライスではないのだからもっと考えて作ればよかったかもしれない。もっとも、どうせ余るのだから残りは夜に白米に掛けて食べても問題ないのだが。
「成さんって料理上手?」
「……普通だ。第一、この歳で自炊をやったことのない人間の方が珍しいだろう」
「えぇ、俺、メシ炊いたことないー」
「んなっ! 米くらいは炊けるようにしとけ。いつかのたれ死ぬぞ」
「めんどい……」
 作れないではなく面倒くさいとのたまった達海に、成田の額にぴくりと青筋が浮かぶ。だがその青筋もため息とともに薄くなる。その面倒なものを他人の家に上がり込んで食べようとしている男の厚顔無恥さにほとほと呆れてしまったのだ。怒る気も失せる。
 思い切り嘆息して、成田は箸立てから漆黒の箸を抜き取った。同じように達海も適当な箸を手に取る。達海の箸はなぜか緑色のそれだ。本来なら使ってほしくはないのだが、来る度に馬鹿の一つ覚えのようにそればかり選ぶので注意することもなくなった。
「お前がのたれ死のうが俺には関係ないな」
「成さんってつめてーの」
「そもそも敵チームだからな」
「はいはい。いただきまーす」
「くれぐれも、くれぐれも零さずに食べてくれ」
「……わかってるって。成さんってこまけーの」
「お前が適当すぎるんだ」
 既に前科のある達海の楽観的な返事に成田の眉間に皺が寄る。
 食べ物をこぼしては、成田こだわりのカーペットが犠牲になっているのだ。そろそろ本当に身を引き締めてもらわないと困る。咎めようかとしたが、空腹だった達海は熱いカレーにふぅふぅと息を吹き掛けている。せっかくのご飯時にそんなことを一々釘を刺すのも年上として威厳もないかもしれないと止めた。
 魅惑的なカレーうどんを熱そうに、けれど達海があまりにもがっつくものだから成田はみっともないとばかりに顰め面になった。はふはふとうどんを一生懸命に食べるのはいいのだが、そんなに焦らなくてもうどんが飛んで行くわけではないのだ。
「もっとゆっくり食べろ。カレーが跳ねる」
「いいじゃん。だって美味いんだもん」
「うま……、まぁ、今日のところは許してやってもいいがカレーうどんは跳ねやすいからもっと気を付けて……」
 実直な言葉に瞠目してから、満更でもなさそうに成田は悦に入る。美味いと褒められれば悪い気はしないのだ。だからついつい、また達海に食事を奢ってしまうというスパイラルに陥っていることに東京Vのエースは気付いていない。
 ニヒヒと確信犯の笑みを浮かべた達海だったが、もう一口食べようと白ネギを取った箸が滑った。
「あ、」
「!」
 べちゃり、と白ネギがカーペットに落ちる。
 片栗粉によってとろみのあるスープが絡まっている白ネギは、淡い色のカーペットに大きなシミを付ける。見る見るうちにシミはカーペットに染み込んでいき、そして成田の表情が険しいものへと変貌していく。
「ごめーん、成さん。カーペットにこぼしちゃった」
「……出ていけ、お前」
 悪気なくそう謝った達海が成田の静かな怒りによって追い出されるのは、約三分後の話である。


おわり