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※ダービーマッチ前の話

 都内といっても夜になると森のように暗かった。
 街灯が切れているせいだ。数日前からチカチカと虫の吐息だったが、ついに息絶えたらしい。はやく直せよ、と内心で管理している区に悪態を吐いた。納税の義務をきちんと果たしているのだから区民が快適に生活できる環境を整えてほしかった。
 その真っ暗闇の中で、達海猛はひらひらと手を振っていた。目にした瞬間に成田は盛大に眉を顰めていた。相変わらず何を考えているかわからない。
「や、成さん」
「………何してんだ、こんなところで」
 刺のある物言いをひらりとかわすように達海は三日月の笑みを浮かべた。
「なにって、成さんの出待ちに決まってんじゃん」
「出待ち?……ふざけるのも大概にしておけ。不審者として通報するぞ」
「うわっ、ヒッデェーの」
 硬質で頑なな成田と相反する達海の軽薄な口調が夜の帳を揺らした。静寂、とまではいかないが昼間の喧騒と比べれば辺りは耳が痛いくらいの静けさに満ちている。はぐらかすのが上手い男を怒鳴り付けようかという思考が過ぎったが、結局近所迷惑を考えて成田の口は一文字に閉じられた。
 渋面をつくった成田に達海はまたニンマリと笑う。その顔があまりに癪に障るものだから、成田は大人げなく相手から視線を逸らして立ち止まっていた足を再び動かした。
 自分を無視して歩き出した相手に頓着することもなく、達海も同様に歩を進める。
「………さっさと帰れ」
「成さんの出待ちって言ったじゃーん。ファンを無下にしちゃダメでしょ、東京Vの十番なのに」
「………帰り道に居といてなにが出待ちだ。ストーカーの間違いだろう?俺からは、話すことは何もない」
「ちぇっ、つめてーの」
 言葉と裏腹に明るい口調だ。心から嫌がる成田の態度すらも楽しんでいるようにさえ感じられる。何処までも忌ま忌ましいほどマイペースで、いともたやすく他人を巻き込んでしまう。こちらの都合などお構いなしだ。台風のようにぐちゃぐちゃにしてしまう。
 成田の言葉は冗談半分の本気半分だ。達海がいつからそこに居たかは知らないが、真っ暗い場所で予告なく待たれているなんて気持ちがいいものではなかった。
(…どれだけ人に迷惑を掛けてるか、分かってるのか。こいつは……)
 達海に振り回されている自覚があった。
 事実、いまこうして相手の不可解な行動に迷惑し悩まされているのだ。こんな夜中にわざわざ会いに来るなんて常人の感性ならばよっぽどの一大事のはずだ。だがこの男にとっては違う。その根本にある動機がくだらない理由(例えば、成田をからかいたいだとか)なのは分かっている。そう考えを巡らしていると段々疲れてきた。
「……もういい。勝手にしろ」
「ニヒー、じゃあ勝手にする」
 投げやりに言えば待っていたとばかりの返事が聞こえて成田はたった数百メートルの会話ですでに疲れてしまった。そのげんなりとした横顔を横目で確認して、達海はほんの少しだけ口端を吊り上げて笑った。こっそりと。


「……成さん、なんで引っ越さないの?」
「あ?」
 人の家の玄関に入って早々に達海が開口一番に言った。唐突な問い掛けに質問の意図がよく分からず、怪訝そうな顔をしながら客用スリッパを出していた成田が振り向く。
「俺に引っ越してほしいのか、お前は」
「えっ、別にー。ただ東京Vなら成さん結構もらってンだろうし、マンションじゃなくてさっさと一戸建てとか買えばいいのに、って」
「………まぁ、少なくともETUよりは貰ってるかもしれないが、引っ越そうが引っ越すまいがお前には関係ないことだろう」
「そうだけどさぁー…。てか、成さんってちゃんと貯金とかしてそうだよね。衝動買いとかとは無縁そう」
「どんなイメージだ」
「だからそんなイメージー」
 スリッパを突っかけて無遠慮に廊下を進んでいく達海の背中を見送りながら、成田は止めることもできずに溜息を漏らした。自分勝手この上ない。否、自分勝手というよりは自由奔放とでも言うべきかもしれない。達海のこんな性格は代表選手内でもずいぶん言われているし、そのかなり『変わっている』部分がこの男の魅力でもある。
 とはいえ、付き合わされるこちらとしては気疲れする部分も大いにあるのだが。
「ほら、成さん。客にお茶出して!あっ、俺、ドク……」
「そんなものはない。烏龍茶で我慢しろ。好きなものを飲み食いするのもいいが、達海、お前もいつまでも若いわけじゃないんだから少しは考えて、食生活を改善しろ」
「えー……、成さんまでそんなこと言うのかよ。うげぇっ」
「……お前のフロントとチームメイトに心底同情する」
 嘔吐くようなモーションをした達海にますます大きく溜息を漏らして、成田は片手を振った。
「適当に座ってろ。用意してくる」
 言い残してキッチンへと向かう。半ば押しかけてきた達海を客人だとはさらさら思っていないが、適当にあしらっておかないと後が面倒臭そうだった。
 グラスを出して冷蔵庫から冷えた烏龍茶を取り出す。本来なら熱い茶を出すべきだったかもしれないが湯を沸かしたりなんだりをするのが億劫で、氷も入れずに注いだ。冷蔵庫で充分冷やされていた茶褐色の液体がグラスの表面に水滴を生じさせる。
 ふと、こんな夜中に何故あれは来たのだろうと疑問が浮かんだ。あの頭の中を理解するのは無理だ、そんな気がして仕様がなくなる。
「達海猛、か………」
 ETUの七番。
 代表の十八番。
 それだけだ。それだけ。仲がよくも悪くもないただのチームメイトで、けれどマスコミなどの外野は好き勝手に騒ぎ立てている。やれライバルだ、やれエース対決だと煩く成田の神経を逆撫でて重圧を与えてくる。今度のダービーマッチがどんな不愉快な煽り文句をつけて宣伝されているかなんて、成田が例え耳を塞いでいたって喧しいくらいに届いた。
 達海はどう考えているんだろう。
 無意識にリビングの方に顔を向ける。部屋の構造的に相手の姿が見えるはずがなかったのに、そんな動作をしてしまった自分が馬鹿みたいで成田は小さく自嘲した。
 烏龍茶を注いだグラスを両手にしてリビングに戻った成田は、何やらテーブルの上にずらずらと並べている男に目を瞠る。
 何も持たない主義の(以前、飲み会のときには財布すら持って来なかった)達海にしては大荷物だなと思っていたのだが、まさか何か持ち込んでくるとは想像だにしなかった。しかも並べられているペットボトルはすべて同じ製品、ダイナモだった。
(ダイナモ?なんでこんなに……)
「……たくさん貰ったんだけどさ、俺一人じゃ飲みきれなくて。いろんな人に配ってンの。成さん以外に、ケンケンとかにもあげたし」
「古内さんのことそう呼ぶのはやめないか、達海。先輩だぞ」
「……ケンケンがいいって言ったからいーじゃん。成さんは堅すぎ!」
「それは古内さんのやさしさだ。お前、そんなことのためだけにこんな夜中に人の家に……」
「もー、さっさと成さんはうっさいなー。いいじゃん、別になんだって」
 胡座を掻いていた達海は口を尖らせてぶうたれる。二十五にもなるくせになぜこんなにも大人げないのか、成田は本当に呆れ返ってしまった。
 それ以上なにか言うのが面倒になってしまって、黙ってテーブルにグラスを置いた。こんなに飲み物があるならわざわざ持ってこさせることはなかっただろう。苛立ちそうになるのを抑えて、代わりに溜息を吐きそうになった。
「あっ」
 不意に達海が声をあげる。
 訝しい顔付きで成田が達海の方を窺うと彼の手の先にあった烏龍茶のグラスがテーブルの上で転がっていた。当然、中に入っていたのは液体だ。零れていく。
 慌ててのは成田だった。
「! お前、なに零して……っ」
「成さん、タオル」
「ちょ、ちょっと待ってろ!」
 慌てて引っ込んだ成田の背中を、達海はふやけたような笑みを浮かべて見送った。
 ズボンはぐっしょりと濡れてしまっているにも関わらず、達海は戻ってきた成田をどうやったらもっと驚かせたり慌てさせたりできるかを考えていた。そうして笑い方をニンマリと悪いものへと変えて自らが持ってきたダイナモへと手を伸ばした。

 カーペットの染みがもっと広がっていたら、あのエースはどんな顔をするのだろうか。