知り合いのSにねだってバキタツ書いてもらいました!



「月に吠える」


 クラブハウスで少し話をしてから、椿はそれとなく辞去を申し出た。
 それは多忙を極める監督に迷惑を掛ける訳にはいかないという意味の他、もう一つ個人的に別の意味もあった。ただし後者の件は達海に気付いて欲しいとは思わなかったし、むしろ気付かれるほうが怖いくらいのことだ。
「何、帰んの」
「うっス、シャワー浴びて明日に備えます」
「……そ」
 頭を下げると小さく呟き、DVDをテーブルに置く達海。いつものくたびれたシャツから覗く首のラインは、椿には少々目の毒である。
 首筋には年齢が出ると聴くが、加齢も色気に変換されるものなのだろうか。
 いや――好きになってしまった以上、たとえこの監督がどんな仕草をしたとしても自分は動揺しかねない。椿は自ずとざわめく思考を強引に中断し、ジャージを着込んで背を向ける。
 これからロッカーで着替えるのは億劫だけれども、最近はコートとマフラーが無ければ帰れない寒さだった。
 今年が暖冬にしても、外に出れば吐く息は白い。

「うわ、さっむ……!」
 椿がドアを開けた瞬間、達海はその背後で冗談交じりの悲鳴を上げる。自室と廊下の温度差は、言われてみれば確かに身体に響く。
 驚いて椿はノブを離しかけ、咄嗟に口早に謝罪した。
「すっ……スイマセン」
「謝る必要無いじゃん、行くんだろ?」
 素早く振り向いた先の達海はけらけらと笑うばかりで、椿は相手に振り回されているのを自覚する。この人がチーム全体を引っ張るのでは無く敢えて掻き乱すことで、ETUを作り変えつつあるのもまた事実なのだが。
 しかしそんな監督だからこそ、立場と性別の垣根を越えて好きになってしまった。
 もっと振り回されてみたい。
 もっと掻き乱されてみたい。
 かつて「ジャイアント・キリングを起こせ」と言ってくれた達海への尊敬と信頼は、ゆっくりと降り積もって椿の恋を形作っていった。叶うと叶わざるとにかかわらず、膨らむ感情は抑え切れない。

「それじゃ、失礼します」
 椿は頬を赤くしながら、気を取り直し背筋を正してこの瞬間の邪念を振り払う。
 そして改めて出て行く時、達海の微かな声を聴いた。
「……お、今夜は満月か」



 達海の言った通り、空には闇夜に映える真っ白な丸い月が浮かんでいる。あれはクラブハウスの窓から注ぐ月光を、当人が横目に垣間見たための台詞だろう。
 マフラーに顔を埋め、椿はため息をついた。
「何だかなぁ」
 村越も以前言っていたが、『ETUの七番』は非常に重みのある背番号らしい。監督としての達海しか知らない椿にはなかなか想像がつかないが、軽く調べただけでも現役時代の達海がどれほど優れた選手であったかはすぐにわかった。
 逸材と呼ばれ、風のように去っていった男。
 椿自身が七番を背負うことになったのはほんの偶然であったものの、好きになった人と同じ背番号というのは嬉しい。
 ただし一方で、逆に恐ろしくもある。
 今のうちは出来ることを全力でやるしか無いけれども、このまま足元にも届かなかったら――皆の希望であった『ETUの七番』の誇りを、椿の手で穢すことになったら。考えるだけでぞっとする。
 椿はぶんぶんと首を振り、両頬を冷え切った手でパンと叩く。
「あーっ駄目だ、こういう所がチキンなんだ……!」
 コンプレックスに押し潰されて、サッカーを捨てることにはなりたくない。
 達海とて前進を止めた選手になど興味は持ってくれないに違いないし、ジャイアント・キリングを諦めるようでは自分も過去に逆戻りだ。

 凍て付く夜空に、くっきりと輝く月。
 停滞を続けていたETUに新たな光を運んでくれた達海猛という存在は、まさに今晩の月の如く眩しい。
「……監督、」
 その月を見上げて無意識に虚空へと手を伸ばし、はたと我に返る椿。感覚としてはすぐ近くに見えても、現実に地球と月とは一体どれだけの距離があると思っているのか。
 よって苦笑して、腕を下ろす。
 この想いは届かない、届けることさえ許されない。強い眼差しでフィールドを見据えるあの監督に恋心を告げるには、椿はまだ若く幼すぎる。
 遠い天体は指の間を擦り抜けて、なお暗闇に燦然と在った。

 地上の犬が幾ら吠えた所で、天上の月は何も答えてくれない。
 きっと、誰にも掴めはしない。