魔法にかけられて


 ある日、ジーノが言った。
「タッツミーはもっと、僕のことを好きになるべきだと思わない?」
 その言葉に、達海はしばらく相手の顔を見つめてから至極真面目に返した。
「好きとか嫌いとか、どうでもいいじゃん。付き合ってるわけじゃないのに」
「………え?」
 時が止まったかのような反応をしたジーノに対して、達海は気にも留めずに「椿、もっと走れー」などと言っている。練習中なのだ。ジーノが達海に絡んでいるだけで今はれっきとした練習中なわけである。
 達海は手元のチェックボードに何かを書いては選手たちの様子を事細かに観察していた。横にいる王子様のことなど眼中にない。動かしていたペンを止めて、ゴールを見つめながら隣で石化しているジーノに達海は口を開いた。
「ほら、次お前。さっさと戻れー」
 このときはまだ、達海はこの一連の会話がきっかけになるとは思っていなかった。


 ジーノが体調不良を訴えて練習を休んだのは二日後のことだった。
 前日から不調だとぼやいたり、平時よりも妙に口数が少なかったりと違和感はあったもののまさか練習を休むほどになるとは思わなかった。
 選手たちは多少困惑した。例年よりも比較的真面目に取り組んでいたジーノだったというのに、これでは例年の二の舞に成りかねないと各々で不安感を抱いている。
 そんな様子を村越から報告され、そしてまた達海自身もジーノのことが気に掛かっていた。松原たちが言うには、自分との会話の後にジーノの調子がおかしくなったらしい。これっぽっちも身に覚えはなかったが、そう言われると気になってしまう。
 だからこそわざわざジーノのマンションまで足を運んだのだ。
 マンションの管理人だという老婆は始めこそ怪訝そうな顔をしていたが、達海が素性を明かすと一気に態度が変わった。どうやら達海を知っているようで、あれやこれやと世話を焼いてあっという間にエレベーターに乗せられてしまった。
 呆然としている内にエレベーターはぐんぐん上昇する。妙に仰々しいエレベーターの扉が開くと、高層マンションの上の方の階に着いた。何階だというのはややこしくて覚えられない。ただ、最上階が近い景色のいい場所に住んでいるというのは、何だかとても王子っぽい気がした。
 老婆から教えられたうろ覚えの番号のプレート前までいくと、タイミングよく扉が動いた。
 日本人よりも高い鼻。流し目が得意そうな瞳。私服ではあったが、それは間違いなくETUの十番だった。
「元気そうだな、吉田」
「……最悪だよ」
 出てきたジーノに厭味を含めて言うと、どう見ても血色がいいルイジ吉田その人は幽霊でも見たような顔で肩を落とした。寄せられた眉間のシワが達海に訪れてほしくなかったと物語っている。しかしわざわざ家まで押し掛けてきた監督を追い返すつもりはないらしく、黙って入室を促すように扉の隙間を広くした。
「入って」
 急かされる。しかし、なんとなく隣の家の扉が気になってぼんやりそちらを見つめていると、痺れを切らしたジーノが達海の手首を引っ張って玄関へと無理やり引きいれた。
「なにすんだよ、痛いじゃん」
「タッツミーが悪いんだよ。入らないから」
 唇を尖らせて不満を口にすると、即座に返される。そうしてジーノはさっさと奥へ行ってしまう。
 ハーフだから外靴で家内を闊歩していると思っていたがそんなことはないらしく、ご丁寧にも用意されたスリッパを足に突っ掛けた。上品な色合いのスリッパは達海の足には少し浮いて見える。仕方なく、達海は後について家に上がった。
「……へぇ、結構キレーにしてんだな」
 室内は物がなかった。生活感がないのではなく、デザインや色合いを重視した椅子やらテーブルがあるからだ。いかにも『王子』が好みそうなインテリアが揃えられている。
 広さも一人暮らしの割には広い。キッチンは意外なほど奇麗にされており、一通り観察した達海が感嘆した。
「ゴミ屋敷にでも住んでると思ったの? 心外だね。タッツミー、何か飲む? コーヒーくらいしか出せないけど」
「ん、いらないー」
「そう。……適当に座ってよ」
 カップを用意しようとした手は下ろされて、視線は皮張りのソファーに座った達海へと向けられる。物言いたげな双眸がじぃっと達海を見つめる。すっとした立ち姿はほんの少しモデルのようにも見えた。
「それで、何の用だい?」
「体調不良だって言ってる王子様の見舞い」
「フフフッ。それは何とも素敵な理由だけど、嘘をつくならもっとマシな嘘をついてくれないタッツミー。……僕が馬鹿みたいだ」
 そう笑ったジーノはどこと無くいつもと違う。
 坐り心地のよいソファーへの関心を今度はその持ち主へと移して、達海は黒い目を眇めた。多くを悟らせない瞳にはだが、わずかにジーノを気遣うものが含まれている。
「どうしたの、お前。見たところ元気そうだけど、なんかあった?」
 達海の言葉にジーノはジト目をやって、いかにも不満がありそうにした。
 おそらくこの監督にはジーノの心内の半分も伝わっていないのだろう。それも仕方ないことなのかもしれない。あんなにさらりとアピールをかわされているのに、もしも気持ちが伝わっていたら奇跡だった。
 恋心が伝わらないのはさびしい。
 手近にあった椅子を引き寄せて座り、肘をついてジーノは溜息を吐いた。憂鬱げな吐息と悩ましげな双眸が明後日の方向を向いている。
「………僕のお姫様が、僕の気持ちをわかってくれないからね」
 その発言に、達海はジーノが先日「もっと好きになるべきだ」と言っていたことを思い出した。あのときは何を言っているのか、ふざけているのだとばかり思っていたけれどもしかしたらこの男は本気で言っていたのではないだろうか。
 本気で、男の、しかも年上で監督である自分に。
 当たり前だが、達海はジーノのお姫様じゃない。性別も年齢もなにもかも、プリンセスとかいう人種からは掛け離れている。ジーノの言うプリンセスとやらの指す意味はなんとなくわかったが、それを一概に認めてしまうのはなんだか嫌だった。
「お前が王子じゃなくなったら、本気だって信じてやるよ」
「……そんなの無理だよ。だって僕は、王子なんだから」
 はっきりと言い切ってしまうのがいかにも『王子』らしい。判りきっていたその反応に達海は笑った。そうこなくちゃ面白くない。何の理屈や根拠もなくそう思い、達海は悩ましげに吐息を漏らしたイタリア野郎の顔を見返した。
「でもどうしようか。誰よりも『王子』である僕が王子じゃなくなったら、僕は皆からなんて呼ばれたらいいのかな?」
 ふと考え込み始めた王子様に達海はきょとんと呆気にとられたが、すぐに堪え切れずに吹き出した。
「お前ってバカだな」
「ムッ……失礼じゃないかい?」
「王子のくせにバカだ。いや、王子だからバカなのかな。……でもバカだけど、お前はそれでいいよ。ジーノ」
 むくれたジーノに向けられたのは、今まで見たことがないくらい優しい笑いだった。そんな柔らかい表情もできたのかと驚くくらいの笑みに彼は見惚れ、そして彼の心音は一気に速くなる。『好き』だったときよりもずっと鼓動が速く、締め付けられるような狂おしいときめきが心を支配する。
 恋に落ちた。
 いまもう一度、ジーノは達海のことが好きだと思った。
 その微笑を見詰つめたまま動かなくなってしまったジーノを尻目に、達海は優しげなそれを消し去って一気に不敵な王へとその表情を変える。
「ま、安心しろ。お前が王子じゃなくなっても、俺は王様だからね」
 ニヒヒ、と笑った達海にジーノは呆気に取られたように惚けてから苦笑した。髪を掻き上げながら吐息を漏らす。
「……敵わないね。僕の王様には」
 そう零した彼の顔は、もういつも通りの『王子』に戻っていた。わがままで自分本位でナルシストなジーノだ。ここを訪れたときの眉間のシワもなくなって、なにかふっきれたようであった。
 そんな王子にほんの少しドキッとしたのは、監督の心内だけの秘密である。