吉田くんとボタン
「タッツミー。そこ、危ないよ」
ジーノは己の手首を指差しながら達海に声を掛けた。
ちょうどランドリーに向かう途中だったらしいジーノの片手にはタオルが握られている。『王子』でも汗をかくのかと達海はよく分からないことを考えていた。なので、腑抜けた顔で聞き返す。
「ん?なに、なんか言ったか吉田」
その呼び方にぴくりとジーノの米噛みが引き攣った。今までどんな人間にも『王子』と呼ばせてきた彼としては、新監督のこの陰湿なイジメ(のような嫌がらせ)は大層面白くない。
しかし、だからといって言えばどうなる問題でもなかった。
「………王子って言ってるのに、タッツミーは意固地だねぇ」
「吉田いいじゃん。覚えやすくて、ありきたりで」
いけしゃあしゃあと嘯いた達海にジーノは悩ましそうな溜め息を漏らした。なんともわざとらしい。気障なナルシストというのはこういう
「で、なに?」
「ココ。ボタンが取れかかってるよ」
ジーノに示された場所――ジャケットの袖に目をやると、確かにボタンがくたびれたようにへにゃりと顔を覗かせていた。
「あ、ほんとだ」
糸一本で辛うじて袖に留まろうとしているボタン。ジーノに指摘されなければ気付かないうちに無くしていたかもしれない。飾りボタンのようなものだから、実用性には問題は生じないのだが。
有里に付けてもらわないといけないな…とぼんやり考えていると、ジーノが手を差し出してきた。意味が分からず、達海はその手に自分の手を重ねて握ってみる。
途端、びくっとジーノが目を見開いて驚いた表情になった。普段あまりそういう顔をしない男がそうなると面白いものがある。痛快、というわけではないのだが、地味に面白い。
「え、なに、違ったの?」
「……タッツミーがそんなに僕と握手したかったとは、気付かなかったよ」
「………」
ナルシストじみた口調で酔い気味に言われると、好プレーが付随していない分だけいつもより背中がぞわりとし、達海は反射的にパッと握り返していた手を離した。
ジーノはしかし、達海のその態度に気を悪くすることもなく平然と喋る。
「そのジャケット貸してごらん。王子の僕が、ボタン付け直してあげるよ」
「……お前、そんなことできんのか?」
心底怪しむような疑いの目線を向ければ、ジーノは如才ない笑みを貼付けて、変わらず片手を伸ばしている。その横柄なる態度は『王子』の確固たる自信を示していた。
たかだかボタンを付けられるかどうかの話ではあるが、そうまで自信満々で来られると試しにやらせてみたくなる。それにいつまでも廊下にいるのも結構面倒くさかった。
達海はジャケットを脱ぐと、ぐちゃっとしたそれを投げやりにジーノに渡した。その渡し方に眉を顰めたものの、ジーノは黙って達海の上着を受け取る。両手が塞がった状態になり、王子様は困ったように肩を竦めた。
「ちょっと待っててくれない?」
一度は受け取った衣服を再び達海に預けて、ジーノは当初の目的を思い出したようにランドリーへと向かった。
廊下で待つのも間抜けかつ時間の無駄と判断して自室に戻った達海の元にジーノが現れたのは、それからおよそ十五分後のことだった。扉を開けたジーノは既に私服に着替えている。
ランドリーに行っただけなのに随分遅いなと思っていたが、着替えていたとは思わなかった。
しかし達海の興味はすぐにジーノから見ている映像へと移る。
「なにしてるんだい?」
「見りゃあ判るだろ。この間のやつ、観賞中ー」
「あぁ。……それでタッツミー、さっきのは?」
「そこあるから、勝手にやっといて」
「フゥ……、王子にそんなこと言うの、タッツミーくらいだよ。ま、いいけどね」
ため息一つで王様の我儘を流して、ぐちゃりと放り投げられたジャケットを手に取る。
皺だらけのそれに眉を顰めてから、ジーノ皺が伸びるように振り広げて問題の箇所へと目を向ける。その音が煩かったらしく、達海の「おうじーうるさいー」という小言に苦笑を浮かべ、ジーノはポケットから小洒落た裁縫セットを取り出した。
コンパクトなそれを横目にして、達海が目を丸くした。
「………なに、それ?」
「なにって、これで僕がジャケットに魔法をかけるんだよ」
「ちがう。それ。その黒いやつ」
「あぁ、これか。裁縫セットだよ。もちろん、普通のじゃないけどね」
暗に高級なものだと匂わせたものの、達海の興味は高価だということには向けられていなかった。単純にそのデザインがあまりにも、彼が想像していた裁縫セットの域を超えていたからだ。有里が持っているそれは女性らしいものであったし、裁縫ができない自分は裁縫セットなどというものを持ったこともなかった。
達海の好奇心旺盛な様子に驚き、ジーノはくすりと笑みを深める。
(なんだか、タッツミー、僕よりも)
「………ウフフフ、かわいいね」
「あ? なんか言ったか?」
物珍しそうに黒い裁縫セットを見つめる年上の監督に、ETUの王子様は首を振った。
「さぁ、付けようか。ボタン」
広げたジャケットからほんのりと達海の香りがした気がして、ジーノは無意識のうちに頬が緩んだ。試合の歓声をBGMに、彼は針穴に糸を通した。はやく終えなければ、明日の練習内容に支障が出てしまうかもしれないからだ。
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