無題


 突き放された。
 後藤はその場を動けなかった。指一本すら動かせない衝撃があった。達海は変わらずに空を見ている。遠い背中だった。触ることは出来ても、本当の意味で届くとは思えない背中だった。
 イングランドまで、ETUの監督になってほしいと追いかけたときよりも遠かった。距離的にはあと二、三メートルだというのに。
「………それで」
「え?」
「後藤は俺に、今更なにを言いに来たわけ?」
 冷たい声だ。
 十年前よりも掠れたように聞こえるそれは、歳をとったせいだろうか。それとも離れていた時間の分だけ、自分と彼も変わってしまったのか。どちらも有り得て、後藤は十年という年月の重さを感じた。
 あの頃とは変わった服装、立場。
 互いにユニフォームを脱いで別々の道を歩いてきた。達海の十年をろくに知らない後藤。同様に、後藤の十年を達海は知らない。交わらなかった年月を今更埋めようなどという傲慢を思ってはいなかった。
 だがほんの少し、会えばなにかを取り戻せるかもしれないという期待はあった。
「俺はETUを強くしにきた、それだけだよ」
「達海………」
「勘違いしてない? 後藤に会いに来たわけでもないし、ましてやお前がわざわざイングランドに来たから監督引き受けたわけじゃない。単純に、ETUというクラブに興味があったから来たんだよ。それだけだ」
 硬質な声だった。
 現実を見据えた声だった。
 後藤は達海の腕に手を伸ばそうとしたが、自分の中の理性がやめろと叫んでいたために躊躇する。触って無理矢理こちらに向かせたとして、達海が己に好意の一辺も寄せていないことは明白だった。
 昔はこうだったろうか。思い出そうとしたけれど無意識に厭なものを嗅ぎ取って蓋をする。蓋をしたって溢れ出してしまうくらい後藤と達海の関係は薄いものではなかったけれど。
「俺はカントク。お前はGM。そういう関係になれないことぐらい分かってんだろ?」
 吐き捨てるように言って達海はようやく後藤を直視した。冷めた瞳がそこにはあり、それは達海が後藤を特別な意味で見ていないことを物語っていた。
 十年前は違った。達海の方が自分を気にしていた気が、する。だとしたら、十年越しの自分と達海の関係はもしや逆転しているのではないだろうか。
(……俺は、なにを勘違いしていたんだ)
 久しぶりに会った達海をうつくしいと思った。引退し、すっかり行方を眩まして手紙を受け取るまでの間に一切の交流はなかったけれど、その離れていた時間すら飛び越えられる錯覚をおぼえた。
 後藤は拳を握る。
 不意に腹から笑いが込み上げてきた。その嘲笑は己に向けられたもので、浅はかな思考しか浮かばずに達海に好きだなどと告げた自分を責め嗤うものだ。不甲斐なさから握り拳に力を込めると、指の骨が鈍い音を立てた。
 顔を上げる。達海の背中を見詰める。
「……悪かったな、達海。俺としたことが舞い上がってどうかしてたみたいだ。さっきのは忘れてくれ」
 そう言い残し、後藤は胸を突く痛みを押し込んで踵を返した。明日からはまた、普通に過ごさなくてはならないのだ。監督とGM、そして旧友として。
 仕事の忙しさに切り忘れていた爪が掌に食い込んだが、十年経って蕾をつけた恋の結末の惨めさがひどく後藤の心を傷付けていた。




「あのときは、何も言ってくれなかったくせに」
 忌ま忌ましげに呟いて、達海は思いきり地面を蹴りたくなった。けれど足がいつもより重く感じて、どうしてか痛くて、そんなことはできなかった。