監督が風邪をひいたらしいのです。
扉の前で、椿大介は手を上げたり下げたりという無意味とも取れる行動を繰り返していた。
ドアをノックしようと手を上げ、叩こうとしたところで不意によぎった不安に躊躇し、振りあげた拳を握り締めてまた元あった位置へと下ろす。一連の動作は壊れた玩具のように繰り返されていて、この様子を傍から見ていた有里の方がなんだかやきもきしてしまった。
何というか、椿はいじらしいのである。
お粥を乗せた盆を両手に持ちながら見ていると苛々したり歯痒く思ってしまう。別段そう思う必要はないのだが、この選手がそれなりに悩んで何かしらを監督に相談しに来たのだろう。だのに、当の本人が勇気が出ずに扉の前で立ち往生しているのだから、これをいじらしいと言わずして何と言うのか。
しかし、邪魔である事実は変わらない。
「……あのさ、椿君。悩むなら余所でやってくれるかな?」
「わぁっ! な、なな、永田さん!」
大袈裟にのけぞって驚いた椿を見て、友里は笑うよりも先にいっそ呆れてしまった。それほど驚くようなことはしていないからだ。
「達海さんに何か用?」
「え、あの、その……」
「っていうか、選手は近付かないでっていう連絡いってない?」
「ぁ…、えっと、それで心配になって……」
「駄目だよ。達海さん風邪引いてるんだから」
「えっ」
「あ、選手には隠してたんだっけ。ごめんごめん。ま、でもそんなわけだから立ち入り禁止だよ。さ、帰った帰った!」
そう軽く笑うと有里は椿が通れるように廊下の端に寄る。その手は盆を持っていて、盆の上ではほかほかと土鍋が湯気を立てていた。粥だろうか。椿にはその中身を知る術がなかった。
呆然と鍋と有里の顔を見比べて椿は戸惑う。
「ほら、はやく身体休める!」
「は、はいっ!」
窘められるように一喝され反射的に頷いてしまう。
有里は姉のようだ。姉ほどの傲慢さはないような気がするが、姉のような強引さはある。もしも彼女が姉だったらきっと尻に敷かれるのだろうと安易に想像できた。
「達海さんは大丈夫だよ。きっと明日には、いつもみたいになってるから」
「う、うッス……」
選手に心配を掛けまいと快活に言った有里に見送られ、不承不承といった様子で椿は踵を返した。時折ちらちらと振り返ってくる犬みたいな選手に苦笑しつつも、彼女は『タツミ』という薄い紙が貼り付けられている部屋をノックして入った。
「ごほっ……なんだよ、有里か」
「なんだとは何…ってちょっ、寝てなきゃダメじゃない!」
部屋に入室した瞬間に目に入ったのはベッドで安静にすることもなく、机の上に資料を広げているマスク付きの達海だった。
見る見るうちに柳眉を逆立てた有里を尻目に、苦しげに咳込んでから達海はひらひらと手にしていたメニュー表を泳がせる。
「んー、これ作りたかっただけ。もう寝るよ」
疑わしそうに達海へ視線を向けた有里は溜息を一つこぼし、今度は呆れ返ったように言った。その口調はどことなく気遣わしげなものである。
「……無理しないでよ、達海さん。私にあんな説教しといて自分が風邪ひくなんて、それこそプロ失格でしょ」
「へ? 俺、なんかいったっけ…?」
けろりと答えられて有里頬はあっという間に赤くなりそして膨らむ。相手が忘れている物事を自分だけが一方的に、かつ随分と印象に残していると悟ったからだ。持っていたお盆を机に置くと厳しい視線を達海に向ける。当の本人はというと、ほんの少し熱っぽそうに顔を上気させてぼんやり見返している。
風邪だと言わんばかりのその様子に有里はぷいっとそっぽを向いた。
「もういいっ! ちゃんとお粥食べてクスリ飲んで、達海さんなんかさっさと治っちゃえばいいのよっ!」
「おーう、そのつもりだよ。あんがとな」
軽く返され、有里は極まりが悪そうに口を窄めて達海から目を逸らした。
「………食べ終わったのは外に出しておいてくれればいいから。今日は戦術研究も全部おやすみ!ちゃんと休んでくれないと私達だって迷惑するんだから、監督なんだからしっかりしてよね」
そう投げるように言い捨てて、有里は脱兎のごとく部屋から出ていく。
広報が出て行った扉を一瞥し、置いていったお粥と風邪薬を交互に見比べる。本当ならば明日のメニューの見直しやら分析やらをしたいのだが、あそこまで心配されてしまうと食べて寝るしかないだろう。
無造作に書類を机から退けて、代わりに盆を食べやすい方向に直した。
土鍋の蓋を取る。
もわりもわりと白い湯気が立ち上ってくる。これなら食欲のない胃でも食べられそうだ。レンゲを手に持って粥を掬おうとしたところで、達海の耳にはコンコンとおうノックの音が届いた。
「……有里か?」
「監督っ、つ、椿です!」
椿。思わぬ来訪者に小首を傾げる。
こんな夜に何のつもりなのか。第一、今日ははやく帰るようにと言ったはずだったのだが。
持ち掛けたレンゲを盆の上に戻して達海は立ち上がった。覚束ない足取りで扉へと足を向けたが、途中でがくりとバランスが崩れる。間の抜けた声が漏れた。
「あ?」
ガシャン――ッ
「……監督?」
物音に訝しんで、扉一枚隔てた廊下にいた椿はおずおずと室内の達海に声を掛ける。しかし返事はない。いつもならば生返事でも何かしらの反応があるのに今日は無反応だ。もしかしたら寝ているのかもしれない。
「えっと、あの…失礼します!」
けれどなんとなく嫌な感じがして、椿はぐっと拳を握ると思い切ってその扉を引いた。反応はない。ぎゅっと瞑って伏せていた目をうっすらと開く。途端に目に入ったのは床に倒れている達海だった。
「かっ、監督? 大丈夫ッスか!」
慌てて駆け寄り、倒れている達海を抱き起こす。
触れた肌がとても熱い。発熱していることは明らかで、意識を確かめるように何回か達海の肩を叩いた。閉じられていた目蓋がわずかに押し上げられて焦点の定まらぬ瞳が椿を見ている。
朦朧としているのが傍目からも分かった。
「…ぁ、う…椿? 悪い、ぼーっとしててさ……」
「監督、大丈夫ッスか?」
「大丈夫……って言いたいけど、ムリっぽい。悪いけど、布団に運んでもらえるか?」
まだ有里がいるかもしれない。呼んでくるべきかと腰を浮かし掛けたところを制される。戸惑っていると今度は険しい声で急かされた。
「けほっ、さっさと、肩でもなんでも貸してくれ」
「う、ウッス」
言われた通りに肩を貸す。
熱い、と思った達海の体温だったが触れ合った服越しの体温はそれほど高いようには感じなかった。小首を傾げながらも椿は黙って監督をベッドまで運ぶ手助けをした。
達海はぐったりとした風にベッドへ身を横たえる。そうして心配そうにこちらを窺っている椿を視認すると、大袈裟なくらいの溜息をこぼした。
「で、なんでお前ここいるの? 今日はさっさと帰れって指示いってないの?」
「え……っと、俺、監督が心配になって」
「心配? なんで?」
「あのっ、永田さんが風邪だって言ってて、それで……」
「あー…、大体わかった」
煮え切らない椿の返答に痺れを切らして達海は片手を振る。会話を打ち切られた椿は見る見るうちにしょげたが、そんなことをしてもどうにもならない。椿はくっと顔を上げて真っ赤になりながらも精一杯の勇気を振り絞って声を発した。
「俺…、なにか監督の役に立ちたいんです!」
「帰って寝て、明日の練習に出てくるのが一番有り難…ごほごほっ」
「だだだ、大丈夫ッスか?」
「……むしろお前の方が、大丈夫なのかって感じだけど」
咳の合間に漏らしたが、椿の耳には届かなかった。
しばらく黙り込む。二人の間に沈黙が置かれるが、達海としては早い事帰って欲しい気持ちが強い。監督の風邪が選手に移ったりしたら今日の指示が何の意味も持たなくなってしまうからだ。
それに有里の作ってくれたお粥も冷めてしまう。
「帰らないの?」
「……何か、俺が役に立てることってないッスか…?」
言われて、達海の視線が動いた。
同時にすっと彼の腕が伸びて椿はその方向を目で追う。湯気を立てているお粥へと向けられているのを確認すると、椿は疑問を映した目で監督の顔を見返した。
「じゃあ、アレ食べさせて。そしたら帰れ」
滑るように零れた言葉に椿は目をまるくして、次いでそれがどういうことを示しているかまで理解すると耳まで真っ赤にしてあくあくと口を動かす。それが面白くて、達海は思わず笑ってしまった。
明くる朝、クラブハウスの廊下を歩いていた後藤は丁度よく歯磨きを終えた達海と行き合った。
一昨日の夜から隔離されてすっかり顔を見ていなかったので久しぶりの気がする。顔色もよくなっているように見えて後藤は内心ほっとした。軽く片手を上げて声を掛けた。
「おぉ、元気になったか達海!」
「あー、後藤。お蔭様で」
「全快したのか?それならいいんだが」
「おーう、有里の粥のおかげかな」
「有里ちゃん頑張って作ってたからなぁ…」
「まぁ後は………あいつのお陰かー」
「あいつ? 何のことだ?」
「んーん、なんでもなーい」
「まったく…、これに懲りたら、クラブハウスに住んでるんだからもうちょっとは体調管理や食生活に気を付けてもらわないと……」
「あー、わかったわかったー」
そこで無理に話を打ち切って、達海は後藤と別れた。背後から咎める声は聞こえたが大して気にはならない。熱も下がったし、頭もすっきりしている。
「さっ、今日もやるかー」
大きく伸びをして、達海はそう呟いた。
やるべきことはたくさんある。ETUは風邪などに立ち止まっている暇はないのだから。
終
「あっ、熱くないですか?」
「はふっ、へーき」
「あのっ……、気を付けてくださいね」
「わかっらから、はやくつぎくれ」
一口毎に聞いてくる男にうんざりしながらも、熱で朦朧としている体にはその気遣いがなんだか嬉しかった。
「なんか、俺……役に立ってますか?」
「立ってるたってる」
「ほ、本当ですか!?」
適当に返したらあまりにも嬉しそうにそう問い返してくるのでつい呆れ顔になった。ついで不安そうにこちらを窺ってきたので、頭をぽんぽんと撫でてやると椿はこちらが恥ずかしくなるくらい照れる。
「……キスしてやろっか?」
「えっ」
「冗談。……風邪が治ったら、な」
そういうと、大真面目な顔で椿は達海を凝視し、物言わず一心に首を縦に振った。
それがむかつくほどにかわいかったので、達海は思いっきりその髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱してやった。
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