その後のハウンド・ドッグ


 人間はなんだってできる。
 空だって飛べるし宇宙にだって行けた。いつかタイムマシンすら開発してしまうのかもしれない。科学の進歩は著しく、人間の欲望は留まるところを知らない。だけれど自分は何もできない。『腰抜け』だからだ。その事実を情けないと感じるものの、椿は自分のテンションの制御が未だできない。
 ノれるときとノれないとき。
 その微妙な差が処理しきれないまま、毎日の練習を過ごしている。
(このままじゃ……俺)
 ぐるぐると脳内に巡るのはネガティブな思考ばかりだ。
 先日、達海に「お前だけを見ているわけじゃない」と言われてから、椿はどうにも気分を上げられずにいた。別に大したことを言われたわけではない。監督として当然の言葉にもかかわらず、予想以上に動揺した椿はすっかり調子を崩してしまった。プロとしては失格だった。
 そのせいか、日課のイメージトレーニングもあまりうまく行かなかった。
「ハァ、スタメン落ちかぁ……」
 赤崎にどやされたことが思い出されて、重苦しく溜息をこぼした。ETUの15番の刺のある言葉は的確に椿を落ち込ませていた。
 もちろん、赤崎の喝が勝利への貪欲さから発せられていることは重々承知だ。
 ひとつ年上の先輩は『腰抜け』な椿からは考えられないほど多弁で誰に対しても情け容赦がない。黒田に対してああも簡単に喧嘩が売れるのは、もしかしたら赤崎だけかもしれなかった。ああいう風とまではいかなくとも、椿は赤崎のようになりたかった。
 怯えているだけでない、走るだけではない犬に。
 自らを犬と評すのは抵抗感があったものの、その比喩がETUの王子様――ジーノによるものならば致し方ないと思っていた。実際にジーノは凄かった。パスは的確かつ精密であったし、守備の面で多少問題はあったが彼は間違いなくプロだった。あの傲慢な態度が許されるのも、彼のサッカーが素晴らしいからなのだろう。
 憧憬ならば腐るほど抱いている。
 チームメイトである大半の人間に対して椿は少なからず憧れをもっていた。自分に劣等感を抱いて生きていた。だからこそ憧憬は深く強く育っていく。
 そしてその憧れは、達海にも同様に。
(監督。タツミ監督。……タツミタケシ監督)
 そうやって頭に名前を思い描くだけで、あの策謀を巡らす不敵な笑みが浮かんでくる。鼓動が高鳴りすこし煩く感じた。油断すれば一気に広がってしまいそうなほど胸を鷲掴む衝撃。ただそこに立ち、一言を発するだけで第三者を絡め捕らえてしまう魅力があった。憧れても無理はない。自分にないものばかりだった。
 だが椿は、自分の憧れの一部に違ったものが混ざっていることに気付いていた。
 他の憧れとは違う。一撮みの純粋でない感情だ。時折、達海を見ていると椿は彼の首や肩や腕に噛み付きたくなる。スポーツ選手だったのが嘘のように達海の肌は白く見える。あの皮膚を噛み、痕を残し、できるならあの底知れぬ双眸を驚愕や自らが見たことのない表情に変えてみたかった。
 同性の、しかも一回り以上違う監督に、そんなことを考えるのは間違っている。
 なんとなく分かっていた。だけれどその欲情は、とてもではないがまだ若い椿には抑えられない。自分が恐ろしい。いつ、どこで、その欲望に負けてしまうかが分からず、常にロープの上を綱渡りしている気分だった。
 その衝動をどうして感じるのかわからない。ただ、無性に達海に噛み付きたかった。
(………こんなこと考えちゃダメだ。はやくシャワー浴びて帰ろう)
 汗だくの練習着で額の汗を拭う。シャワールームに向かって廊下を歩いていると、ふと声を掛けられた。
「あ、椿」
 心臓がドクンと鳴った。床を見ていた俯きがちの顔を上げる。
 そこに居たのは、達海だった。
「お前、まだいたのか。熱心なのはいいけど、ちゃんと疲れ残さないようにしとけよー」
 ジャージ姿やジャケット姿でなく、半袖のTシャツに真っ黒い長ズボン。
 その痩躯からはほかほかと湯気が立っている。シャワー上がりなのだろうか。その髪の毛は普段よりもぺったりとしていて大人しく、乾き切っていないのが椿の目から見ても明らかだった。部屋で乾かすのだろうか。浮かんだ椿の疑問は、けれどすぐに掻き消えてしまった。
 アイスを咥えている唇が、なんだかとても色っぽく感じる。
 上気した頬や少しくたびれたTシャツは、達海を普段よりも隙のある男のように見せた。飄々としていて不敵な人物である監督が、いつになく色香を放って(椿にはそう見える)隙のある表情をしている。二十歳をやっと過ぎた程度の青年には多少刺激が強かった。ジーノならまだしも、椿はろくな恋愛経験もない。 そんな彼が「噛み付きたい」と思っている相手の無防備な姿を目にする。
 それがどれだけの大事なのか。
 椿は、抑えつけていたタガが弾け飛ぶ音を聞いた気がした。
「!」
 意識が飛ぶ。
「痛――っ。なにすんだよ、椿」
 我に返ったとき、椿は監督を押し倒していた。床と自分との間にその人がいてなにやら痛みに顔を顰めている。達海の肩に掛けていたタオルがリノリウムの上に広がって、乾き切っていない髪から落ちた水滴が晒された床を濡らした。くらくらする。どうして自分が達海の上にいるのかもよく分からずに、椿の思考力はパンク寸前まで膨れ上がった。
(え、なんで、監督が、俺が……? でも俺、え、いつこんなこと、監督痛そうにしてるし退かなきゃ、どかなきゃ、はやくはやく。………でも、今ってチャンスなんじゃ)
 邪な考えがよぎった。
 感情の読めない達海の双眸が椿を見据えている。なにもかも見透かされているような錯覚に襲われ、椿はもう一度、自らを見失った。
「おーい、起き上がれないからさっさと退いて………、っ!」
 達海が言葉を詰まらす。椿は何も答えない。
 彼はただ、達海の首筋に顔を埋めていた。鼻を擦り付ける犬のようなその仕草に、流石の達海も動揺を隠せずに困惑する。椿が動く度に肌に触れるか触れないかの位置にある鼻先がこそばゆく、達海は無意識に身を強張らせた。
 シャンプーと石鹸の匂いがする。
 シャワーを浴びたばかりなのだからそれは当然であったけれど、椿の想像の中では無味無臭だった『達海監督』の匂いがたちまちそれらに差し替えられた。鼓動がどんどん速くなる。心臓が爆発しそうだと思いながら椿は口を開ける。眼前に晒された白い首筋に口付けるような思いで、その犬歯を思いきり皮膚へと突き立てた。
 猟犬は王様へと牙を剥いた。
「!」

 ドンっ――

 しかし、反抗は即座に止められる。
 達海によって突き飛ばされた椿は尻餅を付いた。付いた手の、深夜の廊下のひんやりとした触感に我を取り戻す。同時になんてことをしてしまったのかという事実に、一気に顔面蒼白となった椿は床にぶつける勢いで頭を下げる。タオルを拾い上げ、達海は不愉快そうに顔を顰めて立ち上がった。
 その視線に冷ややかなものを感じ、ますます椿は委縮した。
 こんな失態はミスプレーどころの話ではない。スタメンを外されるのはもとより、もしかしたらクラブを辞めさせられるかもしれない。
「………あーあ、痕付いてッかも」
「す、すみません!あの、俺………っ!」
 吐き捨てるようにぼやいた監督を縋る思いで見上げると、しばしの間を置いて片手を振られる。
「あー……、いいよいいよ。お前汗臭いから、さっさとシャワー浴びて帰れ」
「え……?」
 存外にあっさりとした対応に呆気に取られていると、噛み付かれた首を気にしながら達海は自室へと歩き始めた。
 どう捉えられたかもわからないほど、流された反応であった。椿の胸中は複雑になる。もやもやと晴れない気持ちを抱きつつ、達海の背中を見送った椿はぼんやりと考えた。
(俺、監督のこと、好きなのかな……)
 ひとつ欲望を果たした先に待っていたのは、言いも知れぬ感情だった。
 残念ながら、決死のアプローチをしても恋情を抱いている相手の心情はまったく分からないのだけれど。